夢はそのときの気分で手当たり次第

子供の頃の夢 | おごちゃんの雑文を読んでいて、Randy Pausch教授の「最後の授業」を思い出した。


こどもの頃からの夢をかなえるのってなんか美しい。


ぼくは、亀が好きだったのでガラパゴスでリクガメに会うという夢があった。
あと、万博の民族学博物館のビデオコーナーで見たアンデス山脈先住民族に会いたいという夢もあった。


学生の時南米に留学して思っていたより小規模ながら両方の夢をかなえた。


ほかにも、小学校のときはヒト型のロボットを作りたくて、工事現場の廃材置き場に捨ててある中途半端な木材とか、ボルトとか、針金とかを組み合わせて、なんとかヒト型らしきものをつくってたけどどう考えても動かなくて、「あとは魔法の粉(オズの魔法使いにでてきた)さえあれば完成だ」とか本気で思っていた。


いまヒト型ロボットを開発する仕事に関わっているので、まあかなえかけてる。
魔法の粉じゃないけど、それに近いものを見つけてロボットを動かしているので、あのとき動かなくて悔しかった思いのリベンジはできているな。


振り返るとなんか律儀にこどもの頃の夢に従って生きてきたように思う。


いやしかし、よーく考えて思い出すと幼稚園のときはケーキ屋さんになりたいと思っていたし、小学校のときも大工さんになりとも、動物学者になりたいとも思っていた。

そう考えると、そのときの気分で手当たり次第「あれになりたい、これになりたい」と思ってのかもしれない。


そのなかでどれを一番強く思っていたかってことが大事なんだな?
ぼくの場合はガラパゴスアンデスだ。

ただこれは学生のときにあっけなくかなえてしまった。かなえたことはめでたかったが、そのあと明らかな目標を失ってしまって困った。


こどものころからの夢に律儀に生きるのは美しいけど、それにこだわるとしんどい。不用意に夢をかなえてしまったりするとその後困るよ。
どんな風に困るかというと、電信柱のないだだっ広い草原の真ん中で立っションしろって言われているような感じかな。

「夢を抱くのはこどもだけの特権じゃない」って気づけば、さほど困ることもないのだけども、「こどもの頃からの夢をかなえる」の美しさには見劣りしてしまうので気づいても気づかぬふりをしてしまう傾向がある。

ぼくは、だだっ広い草原で立っションをする苦痛を味わって電信柱の存在の大切さを知ったので、その美しさの程度にはこだわらないようにしている。0か100かじゃなくて、10でも30でも50でもそれなりにいいじゃないかっていうあれ。
でここ最近の夢は、いま流行の火星に行くことだ。これだったらあっけなくかなえてしまうことはまずないだろう。
なんとかロボット開発とかで絡めたら一石二鳥だ。

そんなこと言っていても、もうじき別の夢を抱くかもしれない。そのときは火星は後回しだ。